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葉桜とチャイコフスキーの5番。 [街の表情・ほぼ東京]

四月の七日からの三日間、これが今年の目黒川の桜の満開だった。
あれから二週間と少しが過ぎて、もちろん今は葉桜。
夢のように咲き狂うソメイヨシノを見ていると、
その後に開く葉がじつに大人しく実直に見える。
でも、それがこの木の生命のサイクル。

新しい葉、新しい芽は、もちろん桜以外の木々にも。
ほんの半月ほど前は寒々しい姿を見せていた銀杏も
若い葉が顔を出している。ほんとうに若い

肌寒かった昨日までとはうって変わって、今日は初夏のような天気。
長袖シャツの袖をまくり上げてブラブラ、、、

いや、ブラブラしている暇などないのだけれど、、、

それでも、花は咲き、人は動き、時は巡る、いや時は過ぎる。
頭の中で鳴り響くのは、
チャイコフスキーの交響曲第5番、その第四楽章。
なぜこの音楽が現れてきたのか、理由など無い、
ともかく歩きながらも脳内を駆け巡っていたのは、あのメロディー。
この半年ほど、気ぜわしい日々が続いている。
いや、まだその真っ只中にいるのだけれど、
この曲は、新しい季節への祝祭と、様々なことへの燃料補給か。
チャイコフスキー交響曲第五番第四楽章
セル/クリーブランド管弦楽団
http://www.youtube.com/watch?v=_VGBzJ7sveQ
これはこの曲の私のスタンダード
ちょっと変わったところで、
プレヴィン/ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団も
http://www.youtube.com/watch?v=-5pycwnbvcg
目黒川の桜は七分咲き。 [街の表情・ほぼ東京]

春一番が吹かなかった代わりに、
とんでもない大嵐がやってきた。
北のほうでは今日も荒れているらしい。
自然の摂理とはいえ、いや、厳しい。
ともかく、桜は咲く。
今日の目黒川は7~8分咲きといったところ。
お昼を過ぎる頃から人の数も増え始める。
まだ、普通に歩けるけれど、
さて、週末はいったいどうなることやら。
そろそろ、目黒川の桜。 [街の表情・ほぼ東京]

昨日の午前中の暖かさは何処へやら、
寒冷前線が通り過ぎたあとは、また冷え込んできた。今年は寒いのだ。
それにしてもあの凶暴な風は、春の嵐というには強すぎる。
それでも、花は咲き、人はコートを脱ぎ捨てる。
このわずかな温もりが、北の地にもあと何日かで届く。
今日の目黒川、ソメイヨシノはまだ一分咲きといったところ。
人出も満開のころに比べれば、同じように一、二割。
満開は、たぶん次の週末頃になりそうな予感です。
フォーレ、そして西行。 [聴く・クラシック音楽]

空が少しずつ高くなってきた。
まだ冷たさを含んだ風が、首元にすーっと入り込んでくるけれど、
ようやく春らしい陽差しの到来、今年は待ち遠しかった。
目黒川のソメイヨシノもそろそろ蕾が弾けそう、
開花はあと一週間くらいか。
この季節、フォーレの旋律とハーモニーが、
条件反射のように浮かんでくる。
そういえば、五年前のいまごろ “春の日の、フォーレ” という記事を書いた。
毎年、同じ音楽を同じような心持ちで聴いていることになる。
まったくもって進歩がないのだ。
(去年はその夢見心地の気分には、とてもなれなかったけれど)
西行が見、詠んだ桜をイメージする。
といっても、吉野に行ったこともなく、
ただ数少ない印象の断片を寄せ集めて想像するだけ。
吉野山こぞの枝折りの道かへて
まだ見ぬかたの花を尋ねん
西行は桜を詠んだ歌が230もあり、
吉野山の桜を詠んだ歌は六十首におよぶとか。
上の歌は、この記事を書きながらふと思い浮かんだもので、
あまり深い意味はない。
フォーレ、
レクイエムもエレジーも、もちろん良いし、
ピアノのための音楽も忘れられない。
そのなかでピアノを加えた四重奏曲と五重奏曲、
そこに散りばめられたアルペジオ、その煌めきは何にも増して美しい。
今年も桜の散る頃まで、その旋律が脳と心の内を駆け巡るのだろう。
12世紀に生きた極東の歌人と19世紀フランスの作曲家、
二人の残してくれた精神の高みと造化の妙、
それを重ねて楽しめる21世紀の愉悦。
春はフォーレ、そして西行。
***
私の好きなJean Hubeu盤ではないけれど、
それとどちらも第一楽章のみですが、興味のある方はどうぞ ↓
Gabriel Fauré : Piano Quintet No.1 in D minor Op.89 (1: molt moderato)
Gabriel Fauré : Piano Quartet No.1 in C minor Op.15 (1: allegro moderato)
『暮らしの道具展』、代官山T-SITE。 [日々のデザイン]

T君との付き合いは、かれこれ25年近くになる。
出会ったとき、私はそろそろ四十代の少し手前、T君は二十代の後半だった。
以来、仕事の付き合いは数年だったけれど、
とにかく本気の仕事をおたがいに本気で取り組んだ。
私の仕事歴のなかでも記憶に残るものは、
T君と一緒に取り組んだものが多い。
カタチと意味を結びつける鋭い視点と的確な判断力を持ったT君は、
いつも刺激的なコミュニケーションを持てる存在だ。
いまは、年に何度か会うくらいだが、
それでも、短い時間のなかで本気の話のスイッチが入れば、
かつてのように脳内が刺激される。
寒い土曜日の午後、そのT君からメールが届く。
代官山蔦屋で今日から始まった雑貨市に居るのでぜひ、と。
「市」の正式な名前は『暮らしの道具展』。
冷たい雨だけど、ま、歩いて三分、
それとT君に会うのも半年ぶりくらいかな、、、
事前の情報やら知識は一切持たず、
そのため展示されているモノたちが発する周波に慣れるまで、
ちょっと間が空いてしまったのは否めない。
会場に並んでいるのは、まさに雑貨と呼ぶにふさわしいものたち、
その大方の品々が妙に懐かしい。
人の手の仕業が色濃く残っていたり、素材そのものや染め方に
土や木やその土地の匂いが込められたものが目につく。
ふと、子どもの頃に覗いた農家の納屋のような感覚、
というとちょっと大袈裟かもしれないけれど、
これまで慣れ親しんできたモダンデザイン、
そのクリアで鮮やかな彩りの世界とは、明確に違う匂いを発している。
これは規格化されたモノたちが作りだす鋳型にはめ込まれた暮らしのカタチ、
そこへのひとつのアンチテーゼである。
作り手たちの意識の在処に関わらず、それを感じるところが面白い。
生まれたての「代官山T-SITE」の一角に出現した土の香りとでも言えようか。
この数年、雑貨であれ何であれモノへの執着がめっきり薄くなっている。
年齢の所為かな?とも思う。
けれど、今回の展示を見ていると、
モノにはもっと語るべきことがあるし、
地道にしかし着実に発信し続けているモノもある、
私のアンテナが、たんにその声に鈍感になっていただけではないか、
そんな思いも強く感じる。
ちょっと刺激的な展示だった。
◆T君が手がけているブランド
*「暮らしの道具展」にもオリジナルのソックスを出展している。
◆『暮らしの道具展』は代官山蔦屋のガーデンギャラリーで25日まで開催。
梅は咲いたか [水彩画とスケッチ]

梅は咲いたか 桜はまだかいな・・・
唄の色っぽさとは裏腹に風情のない話だが、
例年だと、この2月の10日前後に花粉症が始まる。
寒かった、というよりまだまだ寒いこの冬は、
その飛散も先延ばしにしてくれる。とてもありがたい
しかしながら、寒い。
こんなに冷気に包まれた冬は、ちょっと珍しい。
霜柱を踏みつぶす子ども時代の朝の記憶が蘇る、
そう、昔は寒かった。
当然、梅の開花も遅いと思う。
近所の公園もまだ蕾のものが多い。
と園内を歩いていたら、
なんとも風格のある(ように見える)梅の老木が目に入る。
その姿はどう見ても苦悶のカタチとしか見えない。
こんなに無理をしなくても、もっと素直に生きればよいのに、
と、つい思いたくなるほどだ。
それでも、幹から唐突に伸びた細い枝には、紅い蕾がしっかり付いている。
生まれたばかりの蕾と、
生きる辛さを一身に背負ったような太い幹の対比。
不思議な樹だ、梅は。
『梅は咲いたか』 東京目黒・菅刈公園
F6(40×31.5cm) Montval CANSON・水彩
カーネーション [水彩画とスケッチ]

カーネーションを描く。
が、なんとも描きにくく難しい、
ということが分かっただけでも収穫か。
『カーネーション』 F3(27×21.5cm)水彩
いちご [水彩画とスケッチ]

子どもの頃に食べたイチゴはずいぶんと小振りだった。
味も、甘みよりも酸味のほうが勝っていた。
その酸っぱくて小さなイチゴを専用のスプーンで一粒ずつつぶし、
牛乳かコンデンスミルクをかけ、砂糖もかけた。
イチゴの風味がかろうじて残るイチゴミルク。
近頃のイチゴは、もちろん昔風のサイズもあるけれど、
だいたいにおいて大きい。
それも、ちょっとグロテスクなほどに大きい。
こうなると粒の集まりというイチゴのイメージはもはや無い。
他の果物、たとえばリンゴや梨といったものと同じように、
ひとつの果物、一個のイチゴと呼びたくなる。
『いちご』 22×18cm・ホワイトワトソン・水彩
仰春 2012年 [水彩画とスケッチ]

正月くらいは平穏に、というのはもちろん人の都合、
自然現象の気まぐれは、そんなことにお構いなしにやってくる。
サッカー天皇杯決勝を写すテレビ画面の揺れを見て、
同じ震度4や3でも、気持ちの構えが以前とはまったく違うのを感じる。
2011年、そんな年もあったのだよ、と思いを馳せるには、
いったいどれほどの時の積み重ねを要するのだろう。
それまで一年ごとに迎える春が、
やさしい春色であって欲しいと、今年はしみじみ思う。
『色のはじまり』 F4・水彩
砧公園、晩秋。 [水彩画とスケッチ]

昭和三十年代の十年ほど、砧公園は都の運営するゴルフ場だった。
それ以前は、東京府民のための大緑地、
そして戦時中は軍事訓練場もあったという。
時代の色をその都度映し、さまざまな使われ方を刻みながら、
現在のファミリーパークになっている。
明るい木漏れ日の落ちる芝生に立ち、
周囲の木々を見渡すと、どことなくゴルフ場の名残を感じる。
地面のほど良いうねりや、そこかしこに感じる奥行き感は、
かつてこの場所でクラブを振った人々の残像がふっと浮かんでくるようだ。
ゴルフ好きの人々からすれば、
今もここにパブリックコースがあればなぁ、、、と、きっと思うだろう。
でもしかし、この貴重な空間がこの場所に残ったこと、
その大切さは何物にも代え難い。
砧公園、晩秋。(最近、おなじような絵が続く・・・
F6(41×32cm) ホワイトワトソン・水彩
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